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産官学連携・地域連携

 

「第3回 こころからの手紙コンテスト」受賞作品公開中!

2015年7月1日~9月9日の期間で、全国の高校生を対象に募集いたしました当コンテストは、おかげさまで3,422点の応募がありました。ご応募くださった皆様には、心より感謝いたします。
テーマは“家族”に宛てたこころからの手紙。日々の暮らしの中で、抱いていながら、これまで口に表すことのできなかった「思い」や「気持ち」を綴っていただきました。
ご応募いただいた作品は、主催の本学および毎日新聞社にて厳正に審査を行い、最優秀賞1点、優秀賞2点、奨励賞2点、佳作15点の計20点を選出いたしました。最優秀賞、優秀賞、奨励賞の計5点を紹介いたしますので、ぜひご覧ください。
 

 

最優秀賞  作品名:2人のお母さんへ~「ベリギャル」からの感謝のお手紙~

優 秀 賞  作品名:お父さんへ

優 秀 賞  作品名:私の目標、私の太陽

奨 励 賞  作品名:じいちゃんへ

奨 励 賞  作品名:タイでがんばるお父さんへ

 

【最優秀賞】
 作品名:2人のお母さんへ~「ベリギャル」からの感謝のお手紙~
 広島県  盈進高等学校 2年 松田 殊里(まつだ ことり)さん
 
 ひろこお母さんへ。不良だった私を見捨てず支えぬいてくれてありがとう。
 りつこお母さんへ。不良だった私に更正するきっかけをくれてありがとう。
 遅刻は当たり前。授業に出ない。暴れ回るし、ことばは汚い。極めつけは茶髪にピアス。そんな私を最後まで一番そばで支えてくれたのは、ひろこお母さんだった。
 今、正直に心を開く。家庭の事情から、兵庫から広島に越してくることになって、私は、ただ寂しかった。私の故郷、「兵庫」がなくなってしまう感じがしていた。仲良しの友だちもいなくなり、さびしかった。兵庫で立てた目標も消えた。広島には広島のいいところがあるけれど、私らしさがどんどん消えていってしまいそうな焦りや不安があった。「郷に入れば郷に従え」なのだろうけど、その頃はまだ、未熟な私。そんな私にはどうにもできなくて、さびしさが恐くて、荒れていた。
 ひろこお母さん。振り返れば、広島に越してきて、備後弁と播州弁で毎日、大喧嘩ばかりでしたね。毎日、本当に激しい近所迷惑だったと思う。私は、ひろこお母さんに暴言を吐きまくっていましたね。家の中は散らかり、壊れ、まさに私は、「不良」でした。その私が、「ビリギャル」よろしく、高校すら危ういのに、「絶対、大学行く。慶応に行くんよ」と突飛なことを言い出しました。受験3ヶ月前だったね。そして、やっと本気で勉強をはじめて、めざした高校に合格。
 高校に入学しても、いっぱい勉強しました。3年前の我が家。今の私を誰が想像したでしょうか。高校1年生1学期中間テストでは、クラス順位一桁をとりました。ひろこお母さんと飛び上がって喜んだことは今でも鮮やかに覚えています。その日の晩ご飯は、ひろこお母さんのはからいで、美味しい焼き肉だったことをしっかり覚えています。
 りつこお母さん。お母さんは阪神淡路大震災で神戸大学の学生だった愛息子を亡くしました。りつこお母さんは、私が更正するきっかけをくれた大切な人なのです。
 最初の出会いは中学3年生の時にあった学校の講演会。不良だった私は、いつもならば間違いなく、「めんどくさ!」と言って保健室でサボッていたと思う。でも、兵庫県生まれで、小学校まで兵庫県で生活していた私は講演タイトルの「阪神淡路大震災」という文字に導かれて、なぜか「今日は話を聞いてみようかな」と思ったのだろう、気がついたら体育館で話を聞いていた。不良娘の私は、「見当違いだったら寝てしまえ!」と思っていた。友達や先生は、私が体育館に座っていることに驚いていました。
 講演中、寝るなんて……終始聞き入って、涙ぼろぼろ泣いてた。感動して、人生観がひっくり返った。
 りつこお母さんは教えてくれましたね。目標を持つ大切さを。人との出合いの大事さを。命の重さを。生きることの意味を。「亡くなった貴光は、湾岸戦争に疑問を持ち、世界平和のために国連職員になるという目標に向かった。そのために猛勉強して神戸大学に合格した。でも、それからしばらくして亡くなった。」
 もがき苦しんだりつこお母さんを救ったのは、貴光さんが遺した生涯でたった一通の手紙でしたね。「私はあなたから多くの羽根をいただいてきました。人を愛すること、自分を戒めること、人に愛されること……力の続く限り翔び続けます。あなたを母にしてくださった神様に感謝の意を込めて」。
 りつこお母さんは、この手紙に共感した方々とたくさんの出会いをもらったとおっしゃっていました。りつこお母さんは、同じように、東日本大震災被災者支援活動をやっていた「ある高校のクラブ」と出合い、つながったのでした。その「クラブ」では、りつこさんを「お母さん」とお呼びしているとのことでした。りつこお母さんは、出合った時、そのクラブの高校2年生が、貴光さんの亡くなった1995年生まれだと知り、衝撃を受けたのでした。もし、貴光さんが生きていたら、その年齢分、その高校生たちが生きていることになるからです。りつこお母さんは、その不思議なご縁を大切にしたい、その高校生たちに「どん底を経験したからこそ凜として生きている姿を見せるんだ」とおっしゃっていました。りつこお母さんは泣きながら、体育館の私たちにおっしゃったんです。聞き入る私には、りつこお母さんが直接、私に語りかけてくれているようでした。
 講演会の後に書いた感想文は、用紙が真っ黒になるほどギッシリ書きました。担任の先生からはじめて、大きな大きな花丸をもらいました。そして、その日……
 家にかえってすぐに美容院に急ぎ、髪の毛を真っ黒にして、ばっさり切って、更正のスタートを切りました。目標は、「ある高校のクラブ」に入って活動することでした。そして念願叶い、今、私は、貴光さんの遺影のある「ある高校のクラブ」の副部長として、貴光さんの笑顔に毎日見守られ、りつこお母さんのたっぷりの愛に包まれて、大好きな仲間たちと心を一つにして、人権と平和をしっかり学んで、反戦・平和・反差別の視点でしっかり活動しています。しかも時々は、りつこお母さんと一緒に! 今とっても生活が充実し、こんな幸せでいいのかなって思うほど楽しい毎日です。
 先日、クラブの顧問の先生が私にこんなことを言ってくださった。「マイクを持った声がとても良い。声が通るし、聞いていてとても落ち着く」。そして「アナウンサーが似合うと思うぞ」って。うれしかった。だから、きっと、そうなれるように、努力を積み重ねます。
 わたしの2人のお母さん。今の私は2人のお母さんがいるからこそあるんです。私はほんとに贅沢ですね。こんな素敵なお母さんが、しかも2人いる。私は日本一の「ベリーラッキーギャル」(略して「ベリギャル」)です。「ビリギャル」のように慶應義塾大学は厳しいかもしれませんが、大学受験は本気で戦います。ですからこれからも支えてくださいね。2人のお母さんがいれば、私は何も怖くありません。これまで、本当にありがとう! これからもどうぞよろしくお願いします。


【優 秀 賞】
 作品名:お父さんへ
 茨城県  県立水海道第一高等学校 2年 金子 桃菜(かねこ ももな)さん

 私は自分で想っていることを、素直に口に出来ないので、手紙にして贈ります。
 正直、私は中学生の頃、あなたのことが好きではありませんでした。毎日怒鳴られてばかりで、家に帰ることが嫌だと思っていたこともありました。でも、今では私のことを想って怒ってくれていたのだと分かっています。だから、毎日怒らせてしまってすみませんでした。
 先日、お母さんからあなたがもう長くは生きられないと告げられました。心の準備をしておけとも言われました。本当は、去年の末にガンで長くは生きられなくて、長くて三年もつかどうかということまで教えてもらっていました。その時は、ショックで何も考えることができず、まだ二年以上あるのだから、少しずつ考えていけばいいと思っていて、まさかこんなに早くガンが進行してしまうとは思ってもいませんでした。
 正直、今でも信じられません。信じたくありません。でも、体の大きかったあなたが、小さく弱ってしまったのを見ると、現実なんだなと痛感しました。あなたを見ていると、何も出来ないことが悔しく、胸が苦しくなる時があります。それでも、一番辛いのはあなただから、私も現実を受け止めて、最期の時まで全力でサポートします。
 あなたは私に、「もっと色んな場所に連れて行ってやれば良かったね。ごめんね。」と言いましたね。全くそんなことはありません。私は小さい頃から、色んな場所に連れて行ってもらったし、色んな体験をさせてもらいました。ちゃんと覚えています。あと、頭がいい所、機械に強い所、何でも詳しく知っている所、全て私が尊敬していることであり、あなたは昔から私の自慢のお父さんです。ありがとう。本当はもっと長く一緒にいたいけど、その願いが叶うことは厳しそうです。私はあなたの最期まで、決してあなたの前で泣かないと決めています。だからせめて残りの時間で、たくさん楽しい思い出を増やして、笑い合える時間を増やしたい。それが私の最後の願いです。


【優 秀 賞】
 作品名:私の目標、私の太陽
 東京都  創価高等学校 3年 櫻井 良美(さくらい よしみ)さん

 私は世界一の幸せ者です。直接顔を見たら、うまく言えそうにないので手紙に思いを込めます。
 お父さん、お父さんは私の目標です。失敗ばかりで、弱くて、信じる強さの無い私に「君は努力家だから。」ってすごく誇らしげにつぶやいていたの覚えてます。全然話さなかったのに、お父さんは見ててくれていたんだって、あの時本当に嬉しかった。「世界中で全員が敵になっても、お前達姉弟の味方だからな。」って言ってくれたよね。私はこの言葉を一生忘れません。
「出ていけ!」って小さい頃は何度も言われて、何時間も正座でお説教されて、子どもの言う事なんて何一つ聞いてくれないんだって失望した事も何度もあった。「勉強さえしてくれればそれでいい。」って冷たく感じた事もあった。私も弟も成長して、今までのやり方じゃうまくいかなくなって、家族全員で顔を合わせても笑顔が無くなっていったよね。心がバラバラになりそうで怖かった。
 お母さんが「変わろうよ」って必死に話しても顔を縦に振らなかったお父さん。弟の心が、一人の世界に閉じこもってしまったらどうしようって不安だった。
"良い父親になってまいります"お父さんがいつも座る所に見えるように貼ってあったこの言葉。この言葉を見た時、涙が止まらなかった。お父さんがどんな思いで、どんなに必死に働いて、人を励ましているか何も知らなかった。私が決めた事なら、全部応援してくれた。お父さん、いつも頑張ってくれてありがとう。私は"良い娘"になれていますか。お父さんは世界一努力家の大好きなお父さんだよ。
 お母さん、私の太陽で幸福博士のお母さん。私が一番悩んで辛かった時、そばにいてくれたのはお母さんだった。
毎日苦しくて、学校から帰ってきては涙をこぼす私に、"ひとたび決めた道だから私は負けない。一人でも"っていう歌を贈ってくれた。「貴方は、一人じゃない!」って、私が学校に行っている間、ずっと祈ってくれていたの知っています。
 ある日、お母さんは涙が出ない病気になった。私達がいっぱい迷惑かけるから。辛くても弱音を吐かないから。
でもある時、私は見てしまったの。お母さんの願い事が書いてあるノートを。数え切れない程ぎっしり書いてあった。読んでいて涙が溢れたよ。最初から最後まで誰かの幸せしか祈っていなかった。お父さんの事、私の事、弟の事、知り合い、ご近所さんの事まで自分の事の様に書いてあった。"娘が元気に学校へ行けますように""近所のおばあちゃんの病気が完治いたしますように"って。一つだけ見つけたお母さん自身の願い事"私にも一人の人を幸せにさせて下さい。"って走り書きだった。そんなお母さんが今苦しんでる。私が支えないで誰が支えるの?なのに、自分の事ばかりで迷惑掛けてごめんね。私がお母さんの向日葵になるって決めたのに、とびきりの笑顔で家族を照らす太陽になるって決めたのに。
 私、変わります。
学んで、学んで、沢山学ぶ。今度は私がお父さんとお母さんを幸せにするから、私の願いを聞いてほしい。いっぱい笑って下さい。私もいっぱい笑うから。泣くのをがまんしないで下さい。私もがまんするのをやめるから。
 18年間私を育ててくれてありがとう。産んでくれてありがとう。私はお父さんとお母さんが大好きです。
努力した人が最後に必ず勝つって教えてくれたよね。私、絶対勝ちます。勝って親孝行する。だから、もう少し待っててね。
困難を笑い飛ばして満開の笑顔の太陽になるから!


【奨 励 賞】
 作品名:じいちゃんへ
 愛知県  県立岡崎北高等学校 1年 髙橋 理緒(たかはし りお)さん

 じいちゃんがいなくなってしまってから、一年半が経ちました。早いね。もうそんなに経っちゃったんだね。でも今でも変わらず、家族みんなじいちゃんのことが大好きです。
 私はそれまで、じいちゃんがいない生活を送ったことがなかった。物心ついた頃から私のそばにはじいちゃんがいた。お父さん、お母さん、萌寧、じいちゃん、ばあちゃんがそばにいてくれる。そんな生活が私の当たり前で、これから先もずっと続いていくものだって思い込んでた。急にいなくなっちゃうなんて考えもしなかった。寂しかったよ。悲しかったよ。でも、それはきっとじいちゃんもそう思ってたよね。
 じいちゃんは私たちにいろんなものを残してくれた。思い出の一つ一つがじいちゃんからの贈り物のように思えた。いっしょに絵を描いたこと、料理を作ったこと、花の苗を植えたこと、恐くなったときに唱えるおまじないも教えてくれた。そんな数え切れない思い出を残してくれたことに感謝しています。
 そんな中から一つだけ。これは私がまだ幼いときの話。
 じいちゃんは背が高くて大きな体だったから、手もすごく大きかった。その手で私や萌寧の手を強く握り、
「こんないい子はどこにもいない」
と言うと、今度は私たちを力いっぱい抱きしめてくれた。私はじいちゃんのこれがすごく好きだった。やってもらうだけで元気が出るようなそんな気がした。だから、じいちゃんが天国へ行くその瞬間まで私はじいちゃんの手を力いっぱい握ってたんだよ。もう意識はなかったから、握り返してはくれなかったし、あの低くて優しい声で
「こんないい子はどこにもいない」
なんて言ってはくれなかったけどそれでもずっと握ってた。大きくてごつごつした優しい私が大好きなじいちゃんの温かい手を。
 もっともっと話しておけばよかった。一緒にいたかった。そんなこと考えたらきりがない。もう話すことも、握手することもできない。でも、姿は見えなくても、いつでも私たちのことを見守ってくれているのは分かってるから、だからがんばれる。
 天国でも幸せに暮らしてね。でもたまに夢で会いにきてね。私、がんばるから。ずっとずっと見守っていてね。
 じいちゃん、本当に本当にありがとう。

【奨 励 賞】
 作品名:タイでがんばるお父さんへ
 愛知県  県立岡崎北高等学校 1年 山田 真衣(やまだ まい)さん

 「部長に肩叩かれちゃったよ。」
 わたしがまだ小学五年生だったとき、お父さんは笑いながら言ってきた。わたしは「肩を叩かれた」という意味がわからず、お父さんの顔をじっと見つめていた。もしやそれがタイへ転勤になったという意味だとは知らずに。
 出発は半年後。あまりにも急だった。わたしは友達と別れたくないし、今生活している環境を変えたくなくて、タイには住まないと言った。でもお父さんは何も言わなかったよね。あの時はごめん。もっとお父さんを傷つけない言い方があったはずだ。自分の事ばかりで、お父さんの気持ちなんて考えてなかった。本当は家族全員でタイに行くのが一番嬉しかったよね。本当にごめんなさい。
 出発当日。今でも明確に覚えてる。
 「それじゃあ、行くよ。」
そう言ってわたしと母に背を向け、ゲートへ歩く。これからしばらく会えないなんて全然実感がわかなかった。あの時、お父さんはどんなことを考えてた?わたしはお父さんが見えなくなるまで動かなかった。
 あれから5年。お父さんがいなくなってすぐのころは元々、昼間は一緒にいなかったから、お父さんが日本にいたときとそれほど変わらないと思った。でも時間が経つにつれて、家の中が寂しく感じられた。きっとお父さんも同じことを感じたと思う。お母さんだって、お兄ちゃんだって。だからお父さんが少しの間、日本へ帰ってきた時、本当に嬉しかったよ。このまま家にいてくれればいいのにと思った。
 タイから送られるお父さんからのメッセージ。
 「携帯ばっかりはダメだぞ」
 「宿題頑張ってるか?」
 一言一言がとても優しくて、わたしの事を気にかけてくれているんだと嬉しくなった。
 よくパソコンでテレビ電話をしたね。お母さんに買ってもらった洋服を見せたり、学校であったことを話したり。すごい楽しい時間だった。でも最近はお互いに時間がなくて、なかなかできないね。また連絡するよ。
 今年の夏にお父さんが帰ってきたとき、あまり一緒に話したりできなくてごめん。帰って来たのが久しぶりだったからなんだか照れ臭くて、上手く接することができなかった。次に日本へ帰ってきたら、学校での出来事とか、たくさん話をしようね。
 わたしにとってお父さんはとても特別な存在です。お母さんとは買い物に行ったり、家事の手伝いをしたり。お兄ちゃんとは勉強を教えてもらったり、喧嘩したり。でもお父さんとは何かする事は少なくて、普段はあまり関わりはないね。それでもお父さんはわたしの高校受験のときや大会で良い結果が出なかったとき、励ましのメールやアドバイスをくれて、すごい心の支えになったよ。ありがとう。またお父さんがタイから帰って来たら、家族全員で旅行に行こうね。


最終更新日:2015年12月16日