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産官学連携・地域連携

 

「第4回 こころからの手紙コンテスト」を開催しました。受賞作品を公開します。

2016年7月1日(金)~9月9日(金)の期間で、全国の高校生を対象に募集いたしました当コンテストは、おかげさまで2,331点の応募がありました。ご応募くださった皆様には、心より感謝いたします。
テーマは“家族”に宛てたこころからの手紙。日々の暮らしの中で、抱いていながら、これまで口に表すことのできなかった「思い」や「気持ち」を綴っていただきました。
ご応募いただいた作品は、主催の毎日新聞社および本学にて厳正に審査を行い、最優秀賞1点、優秀賞2点、奨励賞2点、佳作15点の計20点を選出いたしました。11月27日(日)に実施した授賞式では、最優秀賞および優秀賞を受賞した3人の方々にご出席いただき、表彰状を授与。それぞれ心を込めて、作品を朗読いただきました。

最優秀賞、優秀賞、奨励賞の計5点を紹介いたしますので、ぜひご覧ください。
 

授賞式にて。(写真左から)優秀賞の矢野さん、最優秀賞の金城さん、優秀賞の重政さん。授賞式の様子は12月25日(日)の毎日新聞本社版で紹介されますのでぜひご覧ください。

 

最優秀賞  作品名:『ありがとうの感謝の気持ち』

優 秀 賞  作品名:『お父さんへ』

優 秀 賞  作品名:『ナナイへ』

奨 励 賞  作品名:『父さんへ』

奨 励 賞  作品名:『パパへ』

 

【最優秀賞】
 
 作品名:『ありがとうの感謝の気持ち』
      沖縄県立向陽高等学校(沖縄県) 2年
      金城 五月花(きんじょう さつき)さん

お母さんへ


お母さんには初めて手紙を書くよね。この手紙が天国にまで届くか分からないけれど、今までの思いを全て書こうと思う。
正直に言うと、私はお母さんのことを全く覚えていない。どんな声だったのかも、どんなぬくもりだったのかも・・・顔も写真でしか見たことがない。たった2カ月しかお母さんと一緒に過ごせなかったからお母さんもきっと私のこと覚えていないんじゃないかって今までずっとそう思ってた。でもね、ついこの間、本棚からある古いノートが見つかったんだ。おそるおそる中を開けてみてみると、それはお母さんが亡くなる最後まで書いていた私の成長日記だった。
『H11年5月31日月曜日13時8分出生。天気はくもり。大きな産声と体をバタバタさせていたので元気な子どもでよかったと安心感でいっぱいでした。産まれてきてくれてありがとう。』
この文とともにそえられていた、私をしっかりと抱きしめるお母さんの写真。それを見た瞬間、今まで抱えていた不安が一気にはじけ、涙があふれでた。こんなにも私のことを愛しく思ってくれていたお母さん。そんなお母さんが私のこと忘れるはずないんだって、私はとても愛されていたんだってようやく気づいたよ。
笑っちゃうくらいなぜか私と似ているお母さんの字一つ一つが愛情へと変わり、私の心にとても伝わった。
お母さん、私を産んでくれて、そして愛してくれてありがとう。
「さつきの名前は、お母さんが毎日夜遅くまで考えてくれた世界一の名前なんだよ」
幼い私にそう言った父ちゃんの言葉を今でも私は覚えている。
お母さんが考えてくれた五月花(さつき)という名前は、いろいろな人に読み方を間違われてしまうけど、それでもこの名前はお母さんが一生懸命考えてくれた名前だから・・・自分で言うのも恥ずかしいけど私はこの名前が大好き。「五月の空のように美しく花のように愛される子になってほしい」そうお母さんの願う、美しい花のような子にはまだまだほど遠いけど・・・。でもこれからどんどん成長して、いつかはお母さんのようなステキな女性になれるようにがんばります。お母さん、ステキな名前をありがとう。
今まで、周りの人に心配かけたくないから「お母さんいなくても私大丈夫!」なんて言ってた。でも本当は・・・本当はね、お母さんがいなくて寂しい時がある。友だちがお母さんとショッピングに行ったり、ご飯食べに行ったり、女同士の愚痴を言い合ったり、けんかしたりしているという話を聞いていつもうらやましく思っている。
みんなにとって「お母さん」というのはいてあたり前の存在。でも私は違う。もし、タイムマシーンがこの世にあるなら、お母さんがいる時代に戻って、会ってみたい、話してみたい、触れてだきしめてもらいたい。でも私は寂しいと思ってはいても絶対にそれを口に出さないって決めている。だってお母さんの方が私よりもずっとずっと寂しいと思っているはずだから。私がお母さんの分まで精いっぱい生きて、笑って、そして楽しむ。これが私のお母さんへの親孝行!!だからねお母さん、これからもずっと空から私を見守っていてね。私、頑張るから!!
お母さん、父ちゃん最近ね、お酒飲みすぎて困っているんだ。
健康診断にも全然行かないんだよ。もう大変!!
私がしっかり父ちゃんの健康管理気をつけて長生きさせるから、お母さん心配しないでね。
最後になったけど、改めて感謝の気持ちを伝えようと思う。
お母さん、私を命がけで産んでくれて愛してくれてステキな名前をつけてくれて本当に本当にありがとう。天国にいてもお母さんは私のたった一人のお母さんであり、金城家の家族の一員。
どんなに遠くにいても、家族の形は変わらないよ。
これだけは絶対に忘れないでね。

この手紙がこの思いが天国にいるお母さんにまで届きますように・・・。

お母さん大好き、愛してます。

五月花より




【優 秀 賞】
 作品名:『お父さんへ』
      山口県立徳山商工高等学校(山口県) 3年
      矢野 茜里(やの あかり)さん

お父さんへ

 小学六年生の時、おばあちゃんからお父さんの病気について告げられました。中枢神経原発リンパ腫。日にちや曜日が分からなくなり、物忘れが多くなって病院に行ったら、お医者さまが「残念ですが間違いなく脳腫瘍です。余命はわかりません。余命十日と言ってもいいくらいの週単位で大きくなる腫瘍です。覚悟してください」と言われたと小学生の私でもわかるようにおばあちゃんは言葉を選んで説明してくれました。隣に座っているお母さんは泣いていました。でも、入院すればおじいちゃんがそうだったように元気になってすぐに帰って来る、そう思っていました。
 しかし、お父さんはすぐには帰って来ませんでした。お母さんも病院にいることが多くなって、私は家に一人でいることが増えました。なぜかって?完全看護の病院だったけど記憶障害・認知の症状があって、院内で迷子になったりしてたから、付き添いがいると言われて半年間ずっとお母さんは病院で付き添いをしていました。その時は一人で平気って言ってたけれど、本当は寂しかった。学校から家に帰るのが嫌で、友達とお話をして時間を潰したりしていました。入院して暫く経って、お父さんの頭の中心部のピンポン球程の腫瘍が消えました。でも念の為にと放射線を全脳放射。入院から半年後、無事退院しましたが、家で寝ていることが多くなりましたね。
 家族みんなの祈りと、お医者さまと、お父さん本人の頑張りで腫瘍も、陰も姿を消して、半年間の闘病生活は終わったけど、想像以上の後遺症が残りました。これは私も含め家族全員が覚悟していたことだったけれど、とても辛かった。今もその後遺症はあって、耳は遠くなって、言ったことはすぐに忘れてしまうけど、退院してすぐの頃と比べると、とても回復していると思います。
 私は、お父さんは病気だとわかっていてもどうしてもイライラしてしまう時があります。私が高校受験の追い込みの時期の事、覚えていますか?これはあまり覚えていて欲しくないことなんだけど、その日、私が帰宅すると、大きなテレビの音が聞こえました。すぐにお父さんだとわかりました。リビングから離れた私の部屋にまでテレビの音が聞こえていたので、音を小さくしてと言ったけど、お父さんは耳が遠くなっていて聞こえない。テレビの音より大きな声を出して伝えたけれど、聞こえていないようでした。つい私はカッとなってお父さんに怒鳴ってしまいました。少し、酷いことも言ってしまいました。
 そのことをお母さんに言うと、頷いた後、「実はね・・・・・・」とお父さんが病気になってすぐの頃の話をしてくれました。病名を知ったお父さんはこう言ったと。
「この病気になったのが、お母さんや子ども達でなくてよかった。俺でよかった」
そう言ってポロっと涙が頬を伝ったと・・・・・・。
 そのことを聞き、自分はなんて酷いことを言ってしまったのだろうと後悔しました。お父さんは好きで病気になったわけではないし、一番苦しいのはお父さんです。普通、自分が一番辛い時こんな優しい言葉が言えるでしょうか。お父さんは昔からとても優しい人でした。怒ることもなく、いつも淡々と穏やかなお父さんでした。少しでもお父さんのことを嫌だと思った自分が恥ずかしくなりました。
 思い出したことがあります。お父さんが入院して約二十日後、私は小学校から誰もいない家に帰ってテレビをつけたら「これは日本!?」と目を疑うような映像が流れていました。三月十一日の東日本大震災です。今、家族と一緒にいられる感謝、命の尊さと生きていることの感謝を再認識しました。
 この地球上で、一番私のことを想ってくれているお父さん。そのお父さんの元に生まれてきました。お父さんは四十五歳。私は十八歳になりました。これからは、私が素敵な大人になって、お父さんを守っていきます。お父さんがガンと診断されて五年七カ月。時々衝突してしまうこともあるけれど、今はもう大丈夫。
 お父さんの優しさを知ったから。お父さん体に気をつけて。長生きしてください。

小学校六年生から    

高校三年生になった娘より



【優 秀 賞】
 作品名:『ナナイへ』
      盈進高等学校(広島県) 1年
      重政 優(しげまさ ゆう)さん

ナナイへ


 20年以上前、家族と離れ、海を渡り、日本に来て、日本人のパパと出会ったんだね。結婚して、姉ちゃん、私、弟を産んでくれてありがとう!そして、ここまで育ててくれてありがとう!

 今日からママのことを「ナナイ」って呼ばせてね。
 ナナイは「お母さん」。ナナイの国、フィリピンの公用語のタガログ語で。

 ナナイは、日本で、言葉にも習慣にも苦労したよね。なのに、そんなことも知らずに、いままで、言うことを聞かなかったり、ひどいことを言ったりして、悲しませてしまってごめんなさい。普段は照れくさくてなかなか言えないけど、この手紙に、いまの私のナナイへの気持ちを素直に書いてみます。
 
ナナイもたぶん気がついていただろうけど、私、「フィリピン人のママなんて嫌だな~」と思ってた。パーティー大好きで、すぐにどこでもお構いなしに騒ぐし、踊るのも歌うのも大好きだし、街で祖国の友達と会えば、大声で話すし・・・
 正直、いっしょに出掛けたくなかった時があった。日本ではほとんどだれも聞いたことのないタガログ語で、街なかで騒いでいるとジロジロ見られちゃうでしょ。私まで見られてる気がして、特に小学生のときは、ほんとに嫌だった。
 一番嫌だったのは参観日。ナナイが学校に来たら、「ガイコクジンが来た!」って、みんなに言われるじゃん。だから、参観日の案内のプリントは絶対渡さなかったし、「参観日はいつ?」ってナナイに聞かれても絶対答えなかったよね。ナナイが「参観日、行かんでええの?」って言ったとき、「うん、来んで」って私が言ってたよね。
 大げんかしたときには「日本人のママがよかった!」って言って、ナナイを悲しませたよね。心からごめんなさい。

 いま、すっごく後悔してる。あのときの悲しそうな顔が浮かんできて、後悔のなみだが流れてきます。でも、いまはたくさん流そうと思う。ナナイを遠ざけていた私の中の嫌な心もいっしょに流そうと思う。

 これまで、学校でも、「ハーフ」と呼ばれ続けてきた。顔立ちがはっきりしているし、東南アジアの血が入っていて、肌も少し日焼けしているように見えるから。
 「肌が黒いね」「ガイコクジンじゃ!」「なんか汚い」。こんなことを言われたことがあって悲しかった。思い出すといまでも涙がこぼれる。
 だから、「ハーフって嫌だな。両親が日本人で、“ふつう”の日本人で生まれたらよかったのに」と何度も思っていた。

 でも、入学した高校の先生が、ある日、私のことを、いままでとは違うステキなことばで表現してくださった。それから、私の考え方がガラリと変わったんだ!
 私は「ダブル」なんだって!
 半分しかないという「ハーフ」じゃなくて、ふたつもある「ダブル!」前向きだし、どこか、かっこいいし、とっても素敵だと思う。こんなにステキなことに、どうしていままで気づけなかったんだろう。

 日本で生まれ育った私。だから、タガログ語は少ししか話せません。これから勉強したいので教えてね。
 でもナナイは、タガログ語はもちろん、スペイン語、英語、日本語を話すね。考えたら、すごい能力だよね。尊敬します。
 ナナイがいるから、家では多言語が飛び交っているね。私は、中学1年の時に、韓国文化が大好きになって、インターネットで韓国人の友だちをつくりました。毎日、毎日、インターネットで韓国語を勉強しました。いまだに韓国に行ったことはないけど、いまは、日常会話なら、ある程度は使いこなせます。

 あるとき、その高校の先生が、私が韓国人のお祖父さんと韓国語で楽しく会話しているのを見て、笑顔でこう言ってくれたんだよ。
 「とても生き生きしているね。家で“多言語のシャワー”を浴びているから、自然に外国語が体に染み込んでくるんだろうね。君には、言語の壁がないね。ダブルは違うね」。
これが、私が「ダブル」って呼ばれた最初のシーンです。

 私は、ナナイの作るフィリピン料理がちょっと苦手。ごめん。味が口に合わないんだもん!!でもね!ナナイがお誕生日などのお祝いに作ってくれるミートソーススパゲティは世界で一番おいしいと思う!!

 いま、ちょっと前の私とは少し違う気がする。ナナイは、日本で苦労して、私たち子どもを育ててくれた。ありがたいし、幸せだし、そして、そんなナナイを誇りに思います。

 そうそう、最近、ナナイの友だちから聞いたんだけど、ナナイが、私や弟のことについて、「勉強もクラブ活動もよくやってるよ!」って話してくれたんだよね。それを聞いたとき、涙が出そうになったよ。
 普段ほめてくれることがないから、嬉しかった。ありがとう。
 ナナイは私に「勉強しろ」って言わないよね。でも、しっかり勉強するからね!タガログ語も英語も韓国語も手話もいっぱい勉強して、私は世界の悲しい思いをしている子どもたちを救いたいんだ。国や民族の違いでにらみ合い、傷つけ合う。そんな戦争や紛争を解決したい。以前の私のように、国と国とのはざまで傷ついたり、戦争や紛争の中で悲しむ子どもたちを救いたいと思っている。

 ナナイの子。ダブルの私。いまはとても気に入っています。ナナイ大好きだよ。だから、ナナイも私をもっと愛してね。
 「ナナイ」の母国語のタガログ語。母という意味の「ナナイ」。美しいことばだね。




【奨 励 賞】
 作品名:『父さんへ』
      金沢大学人間社会学域学校教育学類附属高等学校(石川県) 1年
      荒井 直哉(あらい なおや)さん

父さんへ

父さんに聞きたいことがあります。

昨日も夜中にワンコールだけ電話が鳴り、暫くして静かに誰も起こさないように出かけていきましたね。朝、いつもの時間に新聞を読んでいる後姿に、母さんが「夜中、呼び出しだったの?」に「うん。」それだけ。さあ今から夕飯というときに、電話が鳴り、患者さんの応対をしなければならない時も、冬、たっぷり積もった車の雪を落として、10キロ先の施設まで往診に行かなければならない夜も、「行ってくる。」だけ。「お帰り大変だったね。」にも「うん」それだけ。僕たち家族はみんな父さんのどんな時も真摯に、患者さんに向き合う姿を知っています。それを淡々とまるで息をするように自然にこなす父さんの姿を僕は尊敬しています。愚痴を言いたくなることはないのですか?手に持った箸を下してすぐに仕事に向かう時や、たっぷり積もった車の雪を下す夜はどんなことを思っているのですか?以前母さんに父さんは、仕事についてや、家族の中で自分だけ忙しくて大変なことに対して愚痴や不満を言ったりすることはないの?と聞いたことがあります。母さんは結婚して20年間一度も聞いたことがないときっぱり言いました。僕は驚きました。続けて母さんは「パパはどんな時も、自分がどんなどんな状態にあるときでも、ゆっくり患者さんの話に耳を傾けられる、寄り添える、そんな人なんだよ。尊敬するね。」と。僕は小さい頃から医者になることが夢です。それは近所の人が医者だったおじいちゃんの話をしてくれたり、母さんが父さんのことを「すごいね、立派だ。」と僕に話してくれるからです。小さな頃はそんなおじいちゃんや父さんが誇りで憧れでした。

中学生になりお父さんの働く姿をそばで見るようになり、医者という職業について、それに就くことができる人について深く考えるようになりました。僕は今、一生懸命勉強しています。でも、ふと自分について考えるとき不安になります。僕は父さんたちのようにいつも穏やかで自分がどうあっても人に寄り添える人間になれるのだろうか?僕は小さい人間です。周りがうるさい時はイライラするし、自分が落ちこんでいる時は誰とも関わりたくない。僕の小ささをあげればきりがない。僕も父さんのような人間になりたいです。父さんは無口だし、僕も父さんに自分の事を話すのが苦手になってきました。でも聞きたいです。父さんはいつからそんなに大きな心を持てるようになったのですか?高校生のころ僕のように悩みませんでしたか?医者の資質とはどのようなものですか?どうすれば父さんのようになれますか?手紙なら僕でも聞けるし、父さんも答えてくれますか?



【奨 励 賞】
 作品名:『パパへ』
      聖心学園中等教育学校(奈良県) 3年
      平井 愛梨(ひらい あいり)さん

パパへ

大学受験をひかえている私は気持ちにゆとりがありません。そんな時にこの企画の紙を見つけたので気持ちを素直に書きたいと思います。私は幼い頃から歌をうたったり踊ったりする事、そして人前に出ることが好きでした。きっとこれを続けられているのはパパのおかげだと思います。生まれつき片足が悪いパパはうまれてくる私のことを五体満足でうまれてくるのか心配だったそうです。それを聞いた今だからこそ、何不自由なくうまれてくることが出来たのは一番幸せなことだと思うことができます。私が小さい時にパパと一緒に お風呂に入りました。その時にシャンプーを使って鬼のつのを作ってはしゃいでいました。 実は今でも落ち込んだ時に1人で鬼のつのを作って昔を思いだしています。小学生の頃は 大きくなるために夕方の6時には寝かされていました。私はパパとは少しもコミュニケーションをとる事ができませんでした。そんな時、お風呂のかべに水で消えるクレヨンで私にでもわかる問題を書いてくれていました。幼い私はただただおもしろくて必死に考えていました。それだけでなく、パソコンからぬり絵の下絵をコピーしてくれて毎日ぬっていました。そして夏、冬は必ず車で東京ディズニーランドへつれていってくれました。私が寝ている間にそっと抱きあげ車にねかせてくれて朝起きるとディズニーランドについていた時には本当に魔法にかかったみたいでした。

小学4年生ぐらいから私はまわりとなじめずいじめられていました。そのせいで毎日不機嫌な顔をして家族の雰囲気すらも悪くしていたこともありました。そんな時パパは「何かあったんか」とさりげなく聞いてくれた時は涙がとまりませんでした。決して多くを語らず静かに見守ってくれるパパはいつも私の味方をしてくれて心にぽっかり空いた穴を埋めてくれているようでした。その後パパは自らの小さい頃の話をしてくれました。足が悪いからといって逃げることをしないで様々なことに努力していて今ではトップの整備士。パパの話をきいていると私のまわりでおきていることがなんだかちっぽけに感じました。そしてそんなことがあったにもかかわらず誰にも負けずに必死に生きてきたパパの娘であるのでのりこえられないはずがないとも考えるようになりました。だから誰に何を言われようと笑って生きていこうとするようになりました。それを実行できるようになるまでには時間がかかったし苦しいときも悔しい時もありましたがどんなことものりこえられると背中を押してくれたパパのおかげでもあります。中学生になりパパとコミュニケーションをとる事がだんだん増えてきて何かを話さなくてもきっとしっかり見てくれているという 安心感ももつことができました。誰かに自分のパフォーマンスで笑顔になって欲しいと始めたダンスも自分の足を気にして私が何か言われたらかわいそうだと言って最初は来てくれないと思いましたが、そんなことは気にせずに素直に見にきて欲しかった私は来て欲しいとお願いをしました。それからパパは毎回私のダンスを見にきてくれるようになりました。


自分がしたいと思う行動一つにしても娘を第一に考えているパパの気持ちははかりしれないものがあると思いました。だから私は人を見かけだけで判断するのはよくないと改めて感じました。本当にパパはすごく優しくて頼れて娘であることに誇りをもてます。しかし私も体型が太いので見た目が悪いと言われオーディションを落とされた事がありました。その時は何にぶつけていいのかわからない怒りと悔しさとでいっぱいでした。何日も何日も落ち込みました。するとまたパパが「本当にそのオーディションの判定が正しいかどうかは皆が決めることで自分ができる最大限の努力をしたなら自信をもちなさい」と言ってくれました。それから私は体型がどうであれ自分のできる最大限の努力をしようとまた一歩踏みだすことができました。今こうして笑って楽しく生きられているのはパパの一言一言に救われ一言一言にはげまされ背中を押されたからだと思います。さらに言葉だけでなく私の好きなアーティストのライブのためにわざわざ車で東京や長野など様々な所へつれていってくれ好きなことを思う存分させてくれて本当に幸せな環境を与えてくれているのだと改めて感謝しています。私のパパは世界で一番素敵な人だと誰にでも胸をはって言える事ができます。普段、必死に頑張っている姿を見て私はその大きな背中を追いかけています。だから私は人の役にたてるような仕事につきたいと考え進路を決めました。

理学療法士になると。理学療法士になれればパパの足が急に動かなくなったとしても、落ちついてケアをすることができるし少しばかりの恩返しができると思っています。この先ずっと恩返しを続けても足りないぐらいの恩をうけていますが自分なりにずっと恩返しを続けていきたいと思っています。いつも照れくさくて感謝の言葉を伝えることはできませんが本当に感謝でしかありません。
これからもまだまだのりこえなければならない試練がたくさんあると思いますが正々堂々と前をむいて生きていこうと思います。
なのでこれからもずっとよろしくお願いします。




最終更新日:2016年12月2日