不完全な義足や車いすは当たり前
パラリンピックは義肢装具士の腕の見せ所

パラリンピックの注目度と人気が回を追うごとに増しています。その舞台裏を支えるのが義足や車いすなどの修理スタッフです。来年ブラジルで開かれるリオデジャネイロ・パラリンピックにそのメンバーとして加わる月城慶一教授は、6度目の参加で世界各国から集まる約80人のスタッフのなかでも中心メンバーとして頼られる存在。2020年の東京大会でもリーダー役を期待されています。

PROFILE
広島国際大学 総合リハビリテーション学部 リハビリテーション支援学科  
月城 慶一
 教授

1988年国立障害者リハビリテーションセンター学院卒業。ドイツ義肢装具マイスター養成校(トンレトムント)卒業。2007年工学院大学大学院工学研究科修士課程修了。新潟医療福祉大学准教授を経て2015年4月から現職。義肢装具士。ドイツ義肢装具マイスター。京都府出身。

義肢装具士を目指されたきっかけは何ですか?

月城

京都の工業高校を卒業してしばらく、犬の訓練をする家業を何となく手伝っていましたが、新聞で義肢装具士の国立養成学校が埼玉県所沢市にあることを知って入学しました。子どものときからプラモデルやラジコン作りが好きで、手先が器用だったこともあり父も勧めてくれました。好きなものづくりができて、人の役に立てるというところに魅かれました。 

入学すると工作実習や生理学、解剖学など実に楽しかったです。その後、義肢装具製作に歴史があるドイツのマイスター学校で学び、マイスターとしてトンレトムントにある義肢装具製作会社や世界大手の義肢パーツメーカーであるドイツ・オットーボック社、そして同社の日本支社に勤務しました。仕事をしながら大学と大学院で機械工学の専門知識も身に付けました。

義肢装具製作が産業化されたのは第1次世界大戦後なのですね。

月城

オットーボック社の創業は第1次世界大戦が終わった翌年の1919年です。それまですべて義肢装具を手作りしていましたが、戦争で障害を負った多くの元兵士が義足を必要とし、大きな需要が生まれたのです。義足業界のルネサンスです。

日本では1960年代に国内有数の義肢装具製作会社である川村義肢がオットーボック社と総代理店契約を結び、ドイツの部品や技術が多く日本に紹介されました。

世界から80人のベテラン職人が集い
2000件超の修理をこなす2週間

1988年のソウル大会以来、オットーボック社が公式スポンサーとなって選手村に修理センターを設置し、世界各国からスタッフを集めて修理サポートを行っているそうですが、いつから参加されているのですか?

月城

1998年の長野冬季大会からです。その後は夏季大会ばかりで、シドニー、アテネ、北京、ロンドンに続けて参加しました。来年のリオデジャネイロで6大会目になります。

修理チームの規模は回を追うごとに大きくなっています。ロンドン大会では80人ほどの修理スタッフが朝8時から夜11時まで2交代制で修理に当たりました。修理件数は2週間で2000件を超えます。リオでも同じような規模になりそうです。

どのような修理が多いのですか?

 2012年ロンドン大会での車いすの修理

月城

義足や装具のベルトやパーツの調整や交換、車いすのホイールのゆがみ直しなどあらゆる修理があります。ラグビーやテニスなど激しいぶつかり合いや動きのある競技が多い車いすは特に多いですね。

世界大会級のパラリンピックとはいえ、開発途上国から参加する選手の義足や車いすはとてもひどい状態です。右も左もはっきりしない義足、ブレーキの付いていない車いす、荷作り用のひもで直したような装具もあります。先進国の選手が使っているようなきちんとしたものはほんの一部です。そういう点で選手たちにはスタート時点で既に大きな格差があるのです。あまりにひどいので義足1本を初めから作り直したこともあります。無料で修理してくれると分かると、次の日にはその国の選手全員が修理センターにやってくるということもありました。

パラリンピックの修理スタッフと聞けばF1レースのピットのようなイメージを持つ人もいますが、実際に行っている修理は泥臭いものです。そもそも一流選手は修理センターには来ません。彼らが使う義足や車いすは完璧に調整されており、またメーカーなどの専属スタッフが帯同していたりするからです。

修理パーツが底をついても捨てたものをリサイクルする応用力

修理スタッフの楽しさや喜びは何ですか?

月城

世界中から集まるベテランの修理仲間と2週間で連帯感が生まれます。次から次へと持ち込まれる修理の9割は、先進国ではめったに経験することのないようなもので、これまでの経験を試される応用問題ばかりです。それらをチームで克服していく達成感は素晴らしいものです。大会の終盤には用意したパーツが底をつき、一度は捨てたものをリサイクルしなければならないこともありますが、それは義肢装具士としての腕の見せ所でもあります。

大会期間中はあまりに忙しいので競技を見る時間はほとんどありませんが、修理でかかわった選手がメダルを持ってお礼を言いに来てくれる時はうれしい瞬間ですね。

2004年のアテネ大会で、修理センターにやって来た日本人選手が私を見て「日本語で頼めるんですね」とびっくりされました。それ以来、多くの日本人選手が来てくれるようになったのもうれしいことです。修理というのは微妙な調整が必要なので、日本語でやり取りできることに安心されるようです。

修理スタッフとして心掛けていることはありますか?

月城

一番はスピードと判断力です。修理はいろんな国から来たプロ集団が力を合わせてやっています。チームワークでやっていることなのでちょっとでももたもたすると他のスタッフの足を引っ張ることになります。

これだけ続けて参加している修理スタッフは世界でも私ぐらいです。もう修理センターの古株なんです。2020年の東京大会でもリーダーとして頑張らないといけないと思っています。

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