2013年04月19日

橋本研究室~「動く研究室」の話~【前編】

◇プロローグ~「“橋本研究室”はいろんな場所に出没します」~◇

研究費の不正使用が大きく取りざたされ、研究者のモラルが問われている昨今、
こんな不可解な発言には、「不謹慎だ」「真面目にやれ」「ちゃんと研究しろ」
「社会的責任を果たせ」「だから大学教員は常識がない」といった激しい中傷の声が浴びせかけられかねない。
しかしながら、かく言う私は、大真面目なのである。
ただ、やはり誤解の“種”は取り除いておかねばならない。
第一に、研究室が“空飛ぶ絨毯”もとであるはずもなく、可動式の部屋でもない。
従って、ここで言う“研究室”とは“研究室の機能”であり、あるべき機能を機能たらしめるのはもちろん“主人”たる私である。
要するに、“私の研究室の機能は、私の動きとともに場所を変えて発揮する”と言いたかった次第である。

 

◇広島国際大学における私の歩み~「中国語」にも明け暮れた15年~◇

1)私の大学、私の位置
まず、本学についてあまりご存じない方のために、ご説明申し上げるならば、
本学は東広島・呉・広島の3キャンパスからなり、2013年4月現在の学部構成は
保健医療学部・総合リハビリテーション学部・医療福祉学部・医療経営学部・看護学部・薬学部と私が所属する心理科学部の7学部である
(2014年度には医療栄養学部の設置を構想している)。
そして、こうした本学の一教員たる私の任務は「共通教育」、
つまり一昔前の「一般教育」(あるいは「一般教養」)科目を担当することであり、
対象は理屈的には本学に所属する学生全員ということになるが、
私の担当科目は全て一年次か二年次に配当されており、その大半が選択科目である。

 

周知のとおり、1991年の「大学設置基準」大綱化以前、
私のような「パンキョウ(いわゆる一般教養)」担当教員の所属先は主として「教養部」、
あるいはそうした機能を兼ね備えた「学部」であったが、
「大学設置基準」の大綱化を機に「一般教育」と「専門教育」の強固な“垣根”が取り崩され、
組織的には「教養部」の“解体”と「パンキョウ」教員の各「学部」への“分属”化が進む一方、
教育システムの面ではいわゆる“楔形カリキュラム”(「専門教育」の早期開始)が一般化することとなる。
本学で「共通教育」を担当する私が、専門性を冠に頂く「学部」に所属している背景がそこにある。
ちなみに、私が担当する授業の実数は“企業秘密”、また担当科目や本来の専門などについても、いまは敢えて伏せておく。

 

2)私の勤務体系...なのに賑わう私の研究室
とりあえず、本学のアウトラインと私の主な任務をご承知頂いたところで、
私自身の学期中における基本的勤務体系を申し上げるならば、
前後期とも月曜日から金曜日まで毎日、
先に述べた3キャンパスのどこかで授業を担当している(もっとも、2013年度以降、授業担当日が火曜日を除く4日間となる)。
従って、私にも他の先生方と同様、所属先に研究室を配当されていることは確かだが、
研究室のある東広島キャンパスでの担当授業が最も多いとは言え、
他キャンパスでの担当授業数との比率が年間トータルで3:2とかなり接近しており、
さらにキャンパス間移動、“出講先”での授業準備や学生対応なども加わって、
自然、研究室に“ご主人様不在”という時間が増える訳である。

 


↑ 橋本研究室の“玄関”

 

ただ、だからと言って、研究室に“閑古鳥が鳴いている”訳ではない。
キャンパス間の移動を必要としない“空(あ)きコマ”(授業と授業の間)や放課後には、しばしば狭い研究室が学生たちで賑わう。
時に彼らは夜の9時や10時まで居ることもある。
もちろん、私は「共通教育」担当だから、専門学生を対象とするゼミは担当しないし、
卒論指導や大学院学生の指導も、本学では職分外である。
では、彼らは何のために私の研究室へやって来ては遅くまでワイワイやっているのか。
よく雑談も飛び交うが、決して遊んでいるのではなく、私の研究室がクラブの活動場所だという訳でもない。
彼らは、ある目的意識から、勉強する“場”と“インストラクター”としての私を求めて研究室のドアを敲く。

 

3)「中国語」に挑む姿こそ、私のやる気の源
私の研究室へやって来る学生たちの目的の中心は日本中国語検定協会(1980年設立)
が主催する「中国語検定」(以下、“中検”と略)を受験し、合格することにある。
彼らは私が担当する外国語科目「中国語」を一年次から履修している学生たちで、中国語や中国に関心を持ち、
なおかつ“中検”でより高い級に受かることを目指している。
“中検”は最も初歩のレベル=準4級から順に4級、3級、2級、準1級、
そして最高級の1級へと進むしくみになっているが、
第二外国語の授業が週1回しかない本学の場合(前後期併せて30回)だと、
進度が遅く、履修一年では準4級合格すら難しい。
特に二年次科目「中国語Ⅱ」(~2012年度)が消えた今、“中検”には補習が必要なのである。

 

しかし、重ねて言うが、これはクラブ活動ではない。まして、「中国語」は彼らが目指す専門でもない。
それなのに、彼らはその勉強のために大切な時間を注ぎ込む。
この勉強会にやって来る学生たちは二年生以上であり、各自の専門の勉強に重圧がかかり始める段階なのだから、
それでも「中国語」の勉強に勤(いそ)しもうとする彼らの姿勢には、
“インストラクター”である私も、正直、頭が下がる思いである。
しかも、彼らがそのために費やしているのは、貴重な時間だけではない。
私の“インストラクター”はもちろんボランティアだが、彼らには検定料という出費が当然のごとく発生する。
彼らの時間やお金を無駄にさせる権利は誰にもない。
それゆえ、俄然、私の“やる気”も高まっていく。

 

4)専門でもないのに13年~中国語教育、模索の日々~
ところがである。私の専門は実は中国語ではない。
「えっ、そんな無責任な!」確かにこれは“爆弾発言”にも等しい。だが、事実である。
むろん、全く中国語を勉強したことがない訳ではなく、
学部時代には第一外国語として二年間勉強し、さらに中級レベルの授業にも出た。
専門の勉強や卒論で用いた文献や資料はその大半が中世から近現代までの中国語によるものだったし、
大学院進学の際の外国語試験も中国語と第三外国語のロシア語とで受験した。
機会に恵まれて学部の一年次から今日に至るまで、ほぼ毎年、学生交流や学術交流、
学会、現地調査等を目的に中国の地を踏んでいる。
一年に数度訪中したこともあり、大学教育や行政に携わる中国の友人も少なくない。

 


↑ 橋本研究室の“主人”

 

だが、大学教育の中で、あるいは専門家から、
言語としての中国語に関する専門的な手解(てほど)きや中国語教育のKnow-howをきちんと学んだ記憶はない。
私にとって、ナマの中国語に関する主たる“先生”は中国人留学生や現地で出会う一般の中国人、
中国語教育の“先生”は私の授業に出てくれる学生たちで、
彼らの反応や質問が教え方の重要なヒントであった。
私の中国語教育事始めは2000年の春、本学に赴任してから3年目のことで、
他大学から依頼があり、そこで10年間、初級中国語を教える機会に恵まれた。
それまで中国語を正規に教えた経験のない私を支えたのは「学生たちに中国への興味を持たせて」の一言で、
これが今も私の心の礎となっている。

 

5)“中検”の“存在”を“認知”する~「資格」への再認識~
それにしても、正直、こんなに「資格」が重視される時代になるとは思いもしなかった。
かつて大学進学を目指して受験勉強をしていた時、大学に行く意味をぼんやりと“社会へ出るステップ”のように捉え、
日々目にする身近な社会人=「高校教師」を何となく自らの目標に据えた私だが、
「資格」=教員免許は取得したものの、結局、大学に残る路を選んで今日に至る。
修士課程の頃はまだ「高校教師」の路も捨てていなかったが、
博士課程後期への進学を決めた頃には「高校教師」になる夢は疾う(とう)に失せていた。
だから、私には「資格」の重要性といった認識は微塵もなかったと言ってよい。
そんな私に「資格」への認識を蘇らせたのが、実は“中検”だった。

 

他大学で中国語を教え始めてしばらく経(た)った頃、
私を非常勤講師に推してくださった同校の主任教授から
「学生たちに中国語検定を受験するように勧めてほしい」との話があった。
「中国語検定」というものがあることを全く知らなかった訳ではないが、
それまで曲がりなりにも中国語の勉強を続けてきたにもかかわらず、
それがどんなものかを考えたこともない私としては、恥を捨てて一からご教示願うしかなく、
結果として、「資格」社会の到来を再認識させられることになる。
それからの一週間、手渡された4級の過去問を手懸かりに、自らの授業内容と出題レベルとの関係や差異を把握すべく、
許される限りの時を費やした。
学生に勧める前に何より最低限のイメージが欲しかった。

 

6)「中国語」がなかった本学~私的に始めた“勉強会”~
本学が開学した当時(1998年)、私の担当は社会系科目「歴史学」、
国際系科目「東南アジアの社会と文化」「国際関係論」の計三科目に限られていた。
自己の科学研究費課題や“古巣”(広島大学大学教育研究センター)との共同研究も遂行してはいたが、
些か余裕もあったので、いろいろと思索することも少なくなかった。
とくに本学に赴任した当初から疑問を抱いていたことがあり、
これについては今は亡き藤田進理事長・総長に、懇談会席上、質問させて頂いた。
「なぜ本学には外国語科目に中国語が用意されていないのでしょうか」。
外国語科目としては、第一外国語の英語(必須科目)、
第二外国語にはドイツ語・フランス語・韓国語のただ三科目しか用意されていなかったのである。

 

一教員の発言がカリキュラムの変更を促すほどの力を持たぬことは重々承知の上。
だから、“座して待つよりは自ら動くべし”との思いもあり、
着任一年目のある時、何かの折に「中国語やりませんか」と事務の女性たちに持ちかけたところ、
「やりたい」との声がすぐに返ってきた。
彼女たちは“新卒者”で、中国語の履修経験者もいた。
勉強会は彼女たちが仕事を終えた後、私の狭い研究室(当時は1号館517号研究室)で進められた。
参加者は5人だからアットホームそのもの。
私自身はすっかり忘れていたが、ある教科書をテキストとし、
リスニング教材としてカセットテープも配布していたらしい。
2年目にはもう一人増え、夏休みを利用して萩の民宿で合宿勉強会もやった。

 

7)学生たちとの“勉強会”~募るジレンマ、膨らむ欲求~
もっとも、その勉強会は、彼女たちの配置換えと時間設定の難しさ、
大学組織の拡大による業務の過密化も重なって継続が困難となり、終焉を迎える。
ただ、その頃には学生たちとの勉強会も始まっていた。
私の授業を受講する学生のなかに中国語に興味を持つ者がいたからだ(看護学科・医療福祉学科の社会人女子学生3人)。
時に、短期間だが“ロシア語勉強会”をやったこともある(彼女は看護学生で、結局、外大のロシア語学科に再入学した)。
それにしても、男子学生からは一人のエントリーもない。
これは私にとっての悩みでもあった。
「学生にはやはり単位や資格など具体的目標が必要だ」。
既に他大学で「中国語」を教えていた私には、授業開設への思いが募っていく。

 

上里一郎学長(当時、故人)が名もない私の意見を吸い上げてくださったのは、まさにそんな時、2004年春のことである。
事の起こりは、当時、法人本部から来られていた吉村氏との他愛もない雑談から始まった。
「21世紀はアジアの世紀と言われる中で、本学に韓国語の授業があることは有意義です。
ただ、ならば、なぜ世界人口の五分の一を占める中国の言語が本学で教えられてないのでしょうか」
「本学が“国際”という名称を冠し続けるなら、なおさら、隣国の一つであり、
国力を潜在している中国の言語を学ぶことの意義は大きいはず」
「英語ができるのが当然の時代なれば、中国語のような第二言語の資格こそ学生の“売り”になる」。
これは私の“決意表明”でもあった。

 

8)“中検”を視野に入れた授業構想~少人数制への固執(こだわり)~
「では、やってみますか」。事実上、学長のこの一言で、翌2005年度からの「中国語」開設が決定した。
だが、開講まであと半年しかない。
既に2001年度以降、学部新設・新キャンパス設置等が進み、
担当科目や授業の担当コマ数も増えて些か時間的余裕がなくなりつつあったが、
専任教員で「中国語」を担当しうる者は私以外になく(ネイティブの中国人教員も複数在籍していたことは確かだが、
彼らは「共通科目」担当者ではなかった)、
授業プログラムの構築から授業方法の検討まで、事実上孤軍奮闘の日々が続いた。
教務側との議論も重ねたが、譲れなかったのは少人数制、つまり一人一人の学生の“顔”が見える授業の実施である。

 

本学開学当時、たとえ100人規模の講義科目でも、一人一人の学生の課題を添削して返却するなど、
各学生の名前と顔、学力や資質を一致させるように努めていたが、
学部学科が増えるにつれ、実際上、不可能となっていた。
しかし、語学は妥協できない。
とくに“中検”にチャレンジし得る学生の育成も考えていた私としては、一般の講義科目と同等に扱われたくない。
非常勤先は第二外国語でも授業は週二回で、「中国語」の場合、50人規模のクラスが10以上もあり、
なおかつ一年次の秋の“中検”で4級合格者を何十人と出していた。
むろん、それとのハンディを埋めるのは困難としても、最低限の学習環境は整えてあげたかった。

 

9)第二外国語「中国語」の始動~一人の“抜け駆け”が“大江“を作る~
私にとって幸運だったのは、
当時、本学の第一外国語=「英語」方面において少人数制や能力別クラス編成の検討が進んでいたことで、
その流れで、「中国語」もクラス規模を「50名以下」とし、
履修者がこれを超えればクラスを分割すること、学部単位でなく、学科単位のクラス編成とすることが決まった。
むろん、そうなると私一人では対応できないが、
非常勤先のネイティブの先生一人に来ていただくことで解決の見通しがついた。
とは言え、私にはもう一つの不安があった。
「中国語」の授業を開設するのはよいが、果たして学生が集まるのか、これである。
しかし、蓋を開けてみると、それは私一人の杞憂であったことが判る。

 

初年度2005年の「中国語Ⅰ」の履修者は授業を開設した2学部
(「医療福祉学部」と「人間環境学部」=「心理科学部」の前身)5学科を併せて150名を超えた。
とくに臨床心理学科では50名を大きく超え、2クラス編成でスタートする。
翌2006年度開講の「中国語Ⅱ」には「中国語Ⅰ」履修者の三分の一が受講したが、
「一人でも多くの“中検”チャレンジャーを」と考えていた私を驚かせたのは
言語コミュニケーション学科(現コミュニケーション心理学科)の学生で、
彼は2006年6月、単独のエントリーで準4級に合格する(“中検”は3月・6月・11月の年3回)。
この“抜け駆け”は、結局、本学の“中検”参加の先駆けとなった。

 

10)本学の“中検”参加略史~軌跡と実績、そしてトピックス~
ところで、本学は、2006年11月、初めて“中検”への集団参加を実施しているが(その際の参加形体は個人)、
翌2007年3月、協会から参加団体として登録され(団体コード:20710)、
以来、東北大震災を背景に中止となった第73回(2011年3月)を除き(この時は代替措置として同年6月の第74回に参加)、
毎年、3月・11月の2回参加している。
本学学生の第78回(2012年11月)までの合格者は延べ113名(一人で複数級に合格した者を含む)。
内訳は準4級が83名、4級26名、そして3級4名である。
初めから4級を受験した学生もいるので、4級合格者の全てが準4級合格者と重複する訳ではないが、
3級合格者は全て4級を合格した者である。

 

ちなみに、これまで何人かが2級にチャレンジしたが、残念ながら合格者はいない。
ただ、この間、様々な“快挙”も生まれた。
“一期生”で初の3級合格者が出た。
彼は臨床心理学科の4年生で、卒論と格闘していた秋のこと(2008年11月)。
果たして何度目の挑戦であったか。
とにかく最後まで頑張り抜いたその地道な努力と粘り強さには心から敬服する。
“二期生”では一年次修了段階で準4級合格者が出る。
言語コミュニケーション学科の女子学生二人であった(2007年3月)。
また、“五期生”の一人が3年次での3級合格を果たす(2011年11月)。
現時点で“五期”の3級合格者は彼女を含む3名(男子1名、女子2名:全て臨床心理学科)である。

 


↑ 勉強中の“五期生”

 

11)学生の顔を見て7年間~“中検”対策勉強会が続いた理由?~
それにしても、7年間もよく続いたものだ。通算回数はわからない。
週に3回やったとしても、1000回を優に超える計算になる。勉強会は土日祝日も関係なかった。
さすがに夏休みと年末年始、3月末から4月の始業前は控えたが、
それぞれの学生の事情に合わせて行うので、たとえ日祝や休業期間でも、
希望があれば西条(東広島市)や呉、広島市内の喫茶店やファミレスでやる。
“中検”直前に合宿勉強会をやったこともある。
そうなると時間はエンドレスだから、実は回数を数えるなど大して意味がない。
ただ、回数が増えたのには他にも理由がある。
彼らは“一匹狼”もいれば、仲間で来る場合もあり、それに配慮したのだ。
“やる気は雰囲気から”、これは私の経験知でもあった。

 


↑ 気晴らし中の“七期生”

 

そして、そうした“彼らの雰囲気”なればこそ、周りに気を遣う必要もないから自由に質問も出る。
「こんなことを聞いたら笑われるかも」などといった不安も、ゼロとは言えないが、ほとんどない訳だ。
普段の授業もそうだが、私は走り書きのメモは作っても、基本的に講義ノートの如きものを作ったことがない。
で、授業が終わった時が私の“戦争”だ。
その日の授業や勉強会の内容は終了時の板書内容が全てなので(むろん、録音はしてない)、
終了と同時にデジカメで記録する。以前は自分で書き取っていた。
学会発表でも、レジュメは作っても原稿は作らない。
「無責任」と言われればそれまでだし、“ズボラ”の象徴には違いない。
だが、話題は学生の顔、反応と質問で決まる、と考える。

 

12)今もって“無位無冠”の私~彼らとともに成長~
もちろん、正規の授業は私が科目担当者であり、その私がシラバス(授業計画)を作り、それに沿って私が進めていく。
つまり私が主導権を握っているのだが、“中検”は違う。
各回の問題を作るのは日本中国語検定協会であり、私は出題された問題を手懸かりに対策勉強会を行わねばならない。
だから、過去問の分析が“命”である。
先にも述べたように、普段の「中国語」の授業はテキスト内容を基盤に、
学生ベースに基本知識とある程度の応用力を身につけさせることを目的としているが、
“中検”はその枠を越えた実践力の有無を試すところに目的があり、
教科書をマスターしたとて“中検”突破に結びつく訳ではない。
従って、教科書と“中検”との差異を知ることが指導の前提となる。

 

実のところ、この何年かのうちに“中検”のレベルもかなりアップした。
とくに4級以上で、この傾向が顕著で、例えばかつては3級レベルの内容であった文法事項が4級に降りてきたし、
リスニングの出題形式も“難”化した。
かつては用紙に印字されていた長文聞き取り問題の質問内容が一部印字されなくなったため、
受験者は大半を自分のリスニング力(りょく)に頼らねばならなくなったのだ。
しかし、この変化は何も受験者の負担をのみ増やした訳ではない。私への重圧もそうである。
他大学で「中国語」を教え始めるまで、
「資格」の重要性すら認識してなかった私は“中検”を一度も受けたことのない“無位無冠”。
だが何の理由にもならない。だから彼らの緊張は常に私の緊張でもあった。

 

13)“中検”対策勉強会の様々な想い出~時に大学を飛び出す~
とは言え、常に緊張の連続という訳ではなかった。
例えば、「中国語Ⅰ」一年目を無事やり終えた2006年2月、
本学の東広島キャンパスにほど近い黒瀬文化センターに履修者有志を集め、
非常勤の先生にも協力して頂いて「新年会」(餃子パーティー)をやった。
ご存じの方もあろうが、中国では、「元旦」よりも旧正月に当たる「春節」の方が正月“本番”。
従って、都会に出ている人々も大挙して故郷へ戻り、新春を祝う。
私としては、「中国語」の“ABC”を教えるだけが授業ではないとの考えから、
普段の授業では、私自身の中国各地における経験を踏まえ中国人の生活や文化、方言なども話題にしてきた。
この「新年会」もその一環で、“一期生”の助けを得て3年ほど続けた。

 


↑ 「新年会」2007

 

先にも述べたように、当初から看護学科には中国語に関心を持つ学生がいたが、
保健医療学部改組で新設された看護学部(看護学科)が呉キャンパスに移設されても(2004年)、その傾向は変わらない。
だが、私の研究室は呉にはない。だから、彼女たちとの勉強会はいつも“移動教室”。
東広島の研究室でやったこともあるが、大抵は呉や広島市内の喫茶店かファミレス。
そんな中、学生の希望を入れ中国へ旅をした。
2007年春、第61回“中検”の翌日、
学生7名(臨床心理学科・感性デザイン学科・医療経営学科・看護学科)と広島空港を発ち、一路上海へ。
華東師範大学や重慶西南政法大学の学生と交流し、重慶では少数民族地区も訪れた。

 

 
↑ 「民族小学」(重慶市秀山土族苗族自治県)       ↑ 少数民族地区を行く広国生

 

◇インターミッション◇

さて、以上、本学での「中国語」教育や“中検”をめぐる活動を中心に述べてきたが、
私にとっては本学に在籍した15年間の活動のほんの一部に過ぎない。
思えば本学での活動はまさに“自転車操業”であった。
よく言えば、“臨機応変”だが、悪く取れば“ご都合主義”である。
しかし、その多くが私自身の経験に根ざしていたことも確かである。
例えば、授業を支えてきたコンテンツの出どこは、私自身の子どもの頃からの収集癖であり、
幾多の旅と見聞や“インタビュー”であり、一握りの成功経験と数え切れないほどの失敗経験であり、
様々な人間関係と交友関係であった。
実際、学生達との中国行きにしても、中国の友人たちとの気兼ねない付き合いがなければ実現は難しかった。

 

このあたりで、やはり本学赴任以前の私について少しく述べておく必要があろう。
要するになぜ今の私があるかということであり、具体的には学生時代から本学にたどり着くまでの“道程”である。
むろん、私とて生身(なまみ)の人間だから、紆余曲折もあり、自己の生き様(ざま)を論理的に
きちんと説明し果(おお)せるものではないが、少なくとも、精神的“居場所”を一所(ひとところ)に定め得ない私、
学問に境界を作るのを好まず自己の関心や拡がりに任せて模索し続ける私、
最終的には“帰巣本能”で帰着すべきところに“軟着陸”するものの、
“ワンダーフォーゲル”(渡り鳥)の如く、授業内容の説明上必要とあらば、
しばしばシラバスや教科書をはみ出し思うさま飛び回る私の、歩みの一端はお伝えできると思う。

 

心理科学部 臨床心理学科 准教授 橋本 学

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